『歯』(前編)

 『ガキッ』と音がして、口中に異変が起こった。『シマッタ』と思い、口を大きく開いて、丸の林檎を引 き出した。紅い艶やかな林檎の肌に、五本の歯が齧り付いたままでてきた。

 『オーイ』と家内を呼ぶと、『オーファイ』と、唇の間から息が洩れる。『なんですか、騒々しい』とい いながら入ってきた家内が、林檎と私の顔を交互に三度、ゆっくりと見比べていたが、突然、隣の部屋へ、 ものも言わずに飛び込んで、襖を『ピシャッ』と閉めた。『オーファイ』と叫びながら開けると、寝転がっ て海老のように身をよじって笑い苦しんでいた。『なファんだ、人が困っているのに』『鏡、カガミ』と、 家内は洗面所を指差す。

 鏡の中には、今まで見たこともない、年老いた、醜悪な歯抜け爺がいた。『二ィー』と笑ってみると、口 は真っ黒で、今度はこっけいな翁の面が現れる。後の差し歯五本が取れただけで、こんなに顔が変わるのか と、唖然として見つめているだけ・・・。

 暑い夏を引きずったまだ浅い秋の旬日、長野でのことである。

 取るものもとりあえず、歯医者さんに走った。歳を取った先生は差し歯を表・裏と見ていたが、急にニコ ッと笑いながら『これはうちでは治せません。作った所へ行ってください。』『応急処置をしてくれません か。』『駄目です。出来ません。』と、冷たいもんである。帰ろうと靴を履いていると、ニコニコと先生が 送りに出てきて、友好を込め、優しい声で、『初診料は1,700円です。』

 二軒目は若い張り切った先生だったが、患者は一人もいない。待合室で初診の手続きが終わると、わざわ ざ出て来て差し歯を見、口の中を見た。そして重厚な声で宜(のたも)うた。『東京に帰った方が良いです よ。少しでも早く。』先生は姿を消して、次は受付のおばさんの華麗なる登場となり、棒読み調でキッパリ と『初診料、1,700円です。』

 三度目の正直と、家内に叱咤激励され、追われるように歯医者さんに来た。新しい医院で患者も多い。設 備も整っていて期待がもてる。治せないことはないが時間がかかるという結論であった。『あのー初診料は 』とこちらから尋ねると『1,700円です。決まりですから。』

 村の先生方は集まって決めたのであろう。『ガラッ』と扉が開いたら初診料をと。なんだか分からないけ ど、たいしたもんだ!

 万策尽きた歯抜けの爺さまは、東京に帰ることになった。列車の時間がまだあるので、駅前の蕎麦屋(そ ばや)に入った。軟らかくて食べやすい物ということで、饂飩(うどん)を頼んだ。家内は座席では眠らな いように、口を開けないようにと、細々と心配そうに注意をしてくれた。そこへ饂飩が来た。昼時で客は多 く、汽車の時間も迫ってくる。しかし、食べるものは手馴れたカケウドンだ。いつものように4〜5本すす りこんだ。全部が口に入った途端、『スルッ』と一本抜け出し、テーブルの上に『クルッ』と丸く落ちた。

 敗戦後、小学校の衛生室に最初に置かれた壜に入っていた回虫の標本のように・・・。

 家内は唖然として口を開いて、じっと、その有様を見ているだけ、仕方がないので小さくちぎって、口を しっかり閉じて食べる。こんなものでは、美味しくも不味くも何ともない。汽車の時間は迫るし、腹は空腹 を満たせと怒っているし、これが本当の立ち往生・・・。
(後編へ続く)

1996/2