ひとりで遠出
 あれから、何度か秩父に出かけた。行く度に、少しずつ歩く範囲を広めて行った。皇族の秩父宮様は、お若い頃に秩父によくおいでになられたようである。お酒の森の歴史館に、秩父宮様のお名はこの秩父からとあった。

 秩父駅を出て、すぐ左にある飲食店の中の壁に掛けられた、大きなりっぱな山の写真が目に飛び込んでくる。『どこかで見た感じだけどー』と思いながらジュースを飲んでいた。『あれーあれって、もしかして、武甲山じゃないかしら、山の形からしてそうだわ・・・』。それにしても、お店に飾られた武甲山は、青々した木々におおわれて、それは、それは、魅力的なデーンと構えた姿だ。

 今は、ガリガリに削られ、誠に哀れな姿になった武甲山。タクシーの運転手さんに、あちこち案内していただく途中で、どうしても武甲山の事が気になり尋ねた。「ねぇ・・・どうしてあの山削っちゃったの?」私は武甲山を指差した。運転手さん曰く、「あの山はセメントに使われるものが取れるんですよー。山の中は空洞だらけらしいですよ」と言う。

 秩父のシンボルの山を何故こんなにまでと思い、「反対する人いなかったのですか」と尋ねると、「地元の多くの人がこの山の仕事をしているんです」と。私には、つまり住民の生活が、かかっているんだと言っているように聞こえた。

 利益の欲望はとどまることも無く、むさぼる様に自然を破壊していく。数年前、私の娘がボランティアでタイに行き植林を手伝ったことと、ブラジルにやはりボランティアで、一生懸命植林をしているという青年の話を思い出した。

 小さな苗木から大きく育つまで10年20年要する。伐採された丸裸の山に苗木を植えても、大雨が降ると土砂に押し流されたり、日照りが続くと苗木は根っこも浅く日陰もなく枯れてしまう。一本の苗木が大樹となるには、大変な人間の労力を必要とする。自然はとても早いスピードで破壊されていく。都会の中にいると私は、つい生活の便利の良さで自然の恩恵を忘れてしまう。

 そのような中にあって、毎日の飲み水はペットボトルを買っているが、最近ではイオン水まで店頭におめみえした。おいしい水は高価なものとなりそうだ。

 私は、広島県の乃美という処で生まれ育った。家の前方には板なべ山、後方には西原山があり、そしていくつか峠を越えると鷹の巣山がそびえたっている。小さな盆地のまわりには、丘とも山とも区別しがたい小高い山があって、盆地のやや中央には山から流れ出る小川が何本か合流し、一本の河となしている。小川には、小さい魚のめだか・ごっぽう・どじょう・はや・ふな、そして大きいものになると、なまず・うなぎ・鯉など何処にでもいた。又、川ではしじみ・たち貝も採れて、『かんの寒い時が一番美味しい』と言って、母が寒い中を採って来て、よくお味噌汁に入れて食べさせてくれたものだ。又、夏のたんぼには、たにしがいっぱいいた。

 6月の始めになると、いっせいに田植えが始まる。ちょうどこの時期に山いちごが、オレンジ色になって食べ頃である。幼かった私は、6っ年上の姉にくっついてウチの山に入ると、山ゆりの香りがどことなく漂ってきて、香りの世界へと導く。その香りは、カサブランカの香りに似ているが、とても柔らかくこの上ない優しい香りである。丈は60センチ位であったであろうか。花の色は美しく、この世のものかと思うほどに薄いピンクだった。

 姉と私はどんぶりを持って、山いちごを採りに山に行ったのだけれど、山いちごはどんぶりに入る前に自分達の口の中に消えていった。山いちごでお腹が一杯になると、次は山ゆりを姉も私も両腕に抱えられるだけつんだ。そして蕾以外の開いた花びらは、ひとひら、ひとひら抜いて花の付け根の甘い蜜を味わった。

 山の地面には数ヶ所、黒い大きな穴ぼこがあった。それは毎年冬が来る前に、小枝を焼いて炭を作った跡である。炭ははえ炭といって、冬の寒い間こたつの暖に使われた。

 この山は春になると、母があなごの入った巻き寿司(海苔巻き)を作ってくれて、私達兄弟を『遠足』と言って連れて来てくれた。そして母も一緒になって、”かくれんぼ”をして遊んでくれた場所である。今は、変わり果ててしまった故郷であるけれど、私の脳裏にある故郷は永遠に変わることはない。

 山の話になると、どういうものか終わりが見つからない。山の思い出が沢山あって、もっと、もっと話したくなってきてしまう。