胃ガン摘出
 この春、私は胃ガンを摘出した。パーキンソン病に、追い討ちをかけるように。医師から、「悪性のガンです」と告げられても心は動揺しなかった。人はガンを恐れるけれど、そのころ首や肩の筋肉のこしゅう、ひざとふくらはぎの痛み、腰痛に、ほどほど悩まされていた。首のヘルニア・腰のヘルニア、横になっても起きてもどうにも辛かった。いっとき水を一口飲むにも苦労した。どうしてもノドがつまった感じで、食物がすんなり食道を通ってくれない。プリン一個食べるのに、白湯で流し込むといった感じだった。今もあの時の事を、忘れることは出来ない。

 大宮にいる息子が仕事を終えて夜遅く帰って来て、寝ている私を起こし首を後から支えてくれて、水を一口、二口と飲ませては帰って行った。私は仕事で疲れて帰ってくる息子が、交通事故に逢わないことを祈った。私の命より子供のことが心配であった。薬の副作用が強く、一日中洗面器をかかえていた。唾は”のり”の様になり、私をどこまでも苦しめた。

 Lドーパを服用するようになって、やっと少しずつ動けるようになった。食事は保健婦さんの紹介で、ボランティアさんの”どんぐり”から、毎日お弁当を届けていただいた。とても親切な保健婦さんで、”どんぐり”さんにおかずは小さく刻んでくださるよう頼んで下さった。その時のご親切は、一生忘れることはありません。

 お弁当は一度に全部食べれないので、昼と夜に分けて食べました。飲み込む時ノドに食物がつまって、必死に指で取ろうとしたけれどうまくいかない。お腹から吐き出す空気もなくなり、(あー、これでおしまいかなー、こんな死にかたしか出来ないのー。)”全ておまかせします”。もし、私に使命がまだあれば『生』を。なければ『死』を・・・。一瞬のことでしたがそう思いました。顔がすごく熱かった。気が付くと吐き出していました。不思議と苦しく感じませんでした。悪戦苦闘していましたが、一方でとても冷静な私が見ていました。命びろいしたことで、普通ならば喜ぶでしょうが、それよりも、自分に与えられた使命の重さを感じました。

 人の為に私に出来る”めいっぱい”のことをしなければ、生きている価値は無いと痛感しました。悩んでいる人、病んでいる人と同苦し、励まし、少しでも役にたつことをして、いかせていただこうと思える自分になれたのではないかと、その様に思います。

 Lドーパ6錠服用するよう主治医の先生に言われ、なんだか一日中、薬と向き合っているようでした。もともと胃の弱い体の私は、胃痛で悩まされました。胃薬をいただいても胃痛は止まらない。時々、ピンク色のものを吐くようになりました。背中も痛く、胃カメラと検査で、胃ガンとわかった。早期ガンを、レザーで手術していただきました。その時のエピソードをちょっと・・・。

 私がお世話になっている病院に、新しい医療器が整って、その医療器が使われる第一号が私だったのです。点滴を一本終えて又一本。二本目になると、”早く終わってよー”となって、自分で点滴の落ちるスピードを早くした。看護婦さんが見にこられて、”あれー”というような表情。「ここいじらわれましたー?」「はい!」「だめですよ!これは手術用の点滴だから、早くしてはだめなのよ!」今まで随分と点滴の経験があり、看護婦さんがいない時、いつも自分で調節していたのです。点滴が早く終われば看護婦さんに、喜ばれると思っていたのに、なんたるチア。

 それから車椅子に乗せられ、点滴しながら手術室に入った。肩に又注射されて寝かされた。側にワイヤーロープをぐるぐる巻いたものがあった。主治医の先生が、「あー助手がいるよ。ちょっと来てくれるようにいって」と看護婦さんに言った。まな板の鯉になっている私は、もしかしてこの機械使うの、先生、初めてではと思ったのが的中した。

 助手が来て患者を前にして、「先生、厚生省がこの機械高かったので、早く元をとるように言ってましたよ」と言った。先生は何も言わないで、私の口に黒いホースを近づけて、「はーい、あーんして。ちょっとこれ誰か持って」・・・誰って・・・?持つ人無し。私しかいないよ。くだの入った口を開けたまま、無言の私が牛乳ビン位の器具を持った。「患者さんに持ってもらって、スイマセンねー」・・・。

 私の頭上のテレビに私の胃の中が映って、これから行われることに目を集中した。「あーここ、ここ、はい、ロープ貸して、はい!パンチ、うーん、はい!パンチ。」先生は体を左右に動かしながら、悪戦しているようだ。ガンをつまんで引っ張って、切ろうとしているのです。まな板の鯉は心の中で、(先生、頑張ってー)と叫ぶ。取れた。取れたというより、切り離れたという感じ。先ずは、一件落着。