Report file No.1
    Page 1 二王子スキークラブ・村田憲治

はじめに


 ninox SKI clubホームページ創設にあたり、「何かスキーに関わるレポートを書け」と鬼のWeb管理人に言われ、テーマを探していたのですが、最新テクニックについては各デモンストレーターのHPや雑誌などで紹介されてるし、僕自身が発表できるようなテクニックが身についているわけではないのに書くわけにもいかず、かといって僕なんかのスキー経歴を思い起こしても雑多なアルバイトとスキー生活のど〜にも品疎で貧乏な生活が漂うものになってしまうんだろうし、ど〜したものかと思っていました。
 とはいえ、子供の頃から大人になる過程で多く関わってきたのがスポーツや、スキー関係者であったりして、年代や生活地域を越えた先輩や後輩、スキー以外の事で随分と教えてもらったり協力してもらったりの素敵な関係がスキーの魅力で、そんなスキーに出会わせ、指導・引率してくれた父親と、青春時代の7年間に渡り弟のようにかわいがってくださった土樽スキー場・苗場山頂の山小屋「遊仙閣」を始めとする塩沢・湯沢地区の皆さん、それから現在の県連盟と地元の二王子関係者のお顔を思い出しながら、40歳を目前に趣味の範囲ではありますが、こんなものではいかがかと、スキースポーツの為になるかもしれない?
村田的スキー温故知新」してみたいと思います。


父親の形見に一冊の古い本がありました。

シュナイダーとアールベルグスキー術


昭和5年に玉川学園出版部から出版された本です。これはスキーの手引書として大衆に向けて販売された記念すべき、初の出版物であるといっても良い本なのだそうです。

とっても貴重な本だから大切にしてください

と、平川仁彦氏(現SAJ教育本部・指導委員会委員長)
上越教育大学 三浦望慶教授(現SAJ教育本部・学校体育スキー委員会委員長)
から、コメントをいただきました。

衆のスキー開花にあたる昭和5年(1930年)のハンネス・シュナイダーの来日によって、アールベルグ技法というスキー術が日本に渡来したことから大衆でのスキーの流行が始まったそうです。当時の朝日新聞の小高吉三郎氏が日本初のサンクスアントンの訪問者となり、新聞紙上にサンアントンの模様が詳細に発表され、玉川学園の小原国芳先生によってシュナイダーが日本に招かれたのでした。

 すでに大正9年?10年?に公開されたシュナイダーの映画「スキーの驚異」ですでに人気者であったシュナイダーは、ラジオから流れる彼のインタビューや講演会・各地での実演で銀座・東京の町はハンチングにニッカボッカ・シャツにジャケットというスキーをしない若者たちまでシュナイダーファッションで大いに流行ったそうです。

(当時、新潟・柏崎・岡ノ町から東京目白に下宿し東京主計中学に通い・銀座界隈を闊歩していた大正7年生まれの父の証言)

 それから、この本には当時の雑誌から切取ったスキー板の値段が貼られています。中学生だった父はきっと今の僕らがカタログでのニューモデルスキー・PC・車なんかへの憧れと同じ想いで貼りつけていたのかもしれません。昭和14年からのバッジテストの1級を戦前に取得していたそうです。

(平成8年夏に県・全日本スキー連盟に記録があるか問合わせましたが、戦前の記録は残っていないそうです。父が存命中に1級取得を証明してあげたかった私の勝手な申出に対応し、県連・SAJ本部の親切な御対応には深く感謝いたします。ありがとうございました。)

父は、スキー技能1級を持っていたことで北千島守備隊時代の陸軍ではスキー教官(戦前の日本体育専門学校卒、現、日本体育大学、2回目の兵役では高等女学校教師から出征)として、敗戦後のシベリア抑留時代には捕虜の身でありながら、ロシア人にダンスやスポーツの指導をした事、お守り代わりのスキー1級バッジはシベリアで無くしてしまった事、得意な芸が身を助け、おかげで人生を楽しんだことなどを聞きました。残念ながら生前少しだけこの本については聞きましたが、もっと早いうちから昔のことを聞き出せば良かったと後悔しています。

以下は本の内側に父が張ったカタログらしき切抜きです。


輝くスペリオールスキー

ヒッコリー材
アッシュ材
イタヤ材
ブナ・カバ材
\15.00 から \25.00
\11.00 から \17.00
 \5.00 から \11.00
 \3.50 から  \8.00