Report file No.1
    Page 4 二王子スキークラブ・村田憲治


以下はレルヒ少佐以前の日本のスキー史です。


(1971年度版・1976年度版 「SAJスキー教程」スキージャーナル社、
昭和37年「シーハイル」玉川学園出版の抜粋)


田スキー年鑑には「明治23年(1890)北海道開拓当時、外国人の嘱託中にスキーを用いて滑る者あり」 が記録されている。

北大スキー部資料では明治28年(1895)日清戦争の凱旋に満州からスキーを持ち 帰ったと記がある。

明治37年(1904)には青森県、旧家の野村冶三郎氏がノルウェー製スキー2台を東京丸善を通じ輸入。明治41年には北海道大学講師のスイス人、ハンス・コラー氏が母国からスキーを持参し学生達に試乗させている。スキー術の正規な伝授ではなかったらしいがレルヒ少佐達の1本杖に対し、ハンスコラー氏は2本杖(現ストック)が注目に値するらしい。

青森陸軍第5連隊第二大隊の八甲田山訓練 で将兵200名が遭難凍死した大惨事(明治35年1月)の見舞 いとして明治42年ノルウェー国王ホーコン7世が以後の雪中訓練の対策として2台のスキーを送っている。 しかし、「一将校に試走を命たるも滑る能わず、そのまま倉庫に蔵」と記されているという。

「シーハイル」内に
直筆サインがありました


的な見解ですが、ロシア帝国のバルチック艦隊・陸軍コサック騎兵などは当時、世界最強と言われていました。

司馬遼太郎著「峠」「花神」「坂の上の雲」・新田次郎著「八甲田山・死の彷徨」など興味があれば読んでみてください。いかに欧米列強文化を急速に取入れ世界の波に呑まれまいと国家全体で奮闘していたであろう当時の時代背景を想像するに、おすすめです!

ちなみに昭和5年は明治天皇崩御後の比較的穏やかな時代の最後の年でもありました。
翌6年には満州事変、
翌7年には犬養首相暗殺5・15事件、満州国建設と成立、
11年には2・26事件、
12年は日中戦争勃発、
13年(1939)ヒトラーによる独・オーストリア併合、ハンネス・シュナイダーはナチスの弾圧により逮捕と国外追放。

(シュナイダーはアメリカへ亡命・1955年米国にて没。何とアメリカの「アスペン」「サンバレー」などのスキーリゾート開発に多大な功績を残している。)

尚、全日本スキー連盟は大正14年創設・昭和17年には戦争のため解散しています。昭和20年12月に財団法人全日本スキー連盟の発足までスキーには良い事が無いこのような時代背景でした。



ュナイダーの本がきっかけでしたが、調べるうちにレルヒ少佐を知りたくなり、長岡外史中将に感激し、シュナイダー以前に時間をかけてしまいました。次回は本の内容と写真のすばらしさを紹介したいと思います。いつか今の我々の時代やスノーボードも歴史に残るのでしょうが、系統立てたスキーを確立させるため、偉業を成し遂 げ、継承してくれた先輩達に心から感謝し、今年も雪の感触を楽しみたいな〜と思ってい ます。

気象庁の長期予報が今年はちょっと外れてくれるのを期待しながら雪を待つ今日この頃でした。



今回のレポート中ので、数々の地名・人名をあげさせていただきましたが、関係者の方に御迷惑をおかけしたり、史実に反する不明瞭な部分がありましたら、御一報いただければ幸いです。


父は昭和14年から始まったバッジテストを戦前に取得。(新潟県下で18名、番号は24番、受検会場は蔵王らしい)
戦地に御守りとして持っていった1級バッジをソ連で無くしてしまったことから、1級取得を証明できないかと、平成8年に新潟県及び全日本スキー連盟の記録を調べてもらいましたが、戦前の記録は空襲により燃えて残っていないのだそうです。
当時の記録や記憶をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご一報ください。


最後まで読んでいただいた方々に心から素晴らしい新世紀が訪れることを祈念いたしましてキーボー ドを一旦、休ませようと思います。

2000/12/8

「シュナイダーとアールベルク・スキー術」の一コマ





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