Report file No.1
    Page 3 二王子スキークラブ・村田憲治

明治44年 陸軍中将 長岡外史の言葉


「・・・・・数千年来、雪に閉じ込められた陛下の赤子を今こそスキーによって健全な国民にいたします。 これは長岡が軍事によっての御奉公いたしますよりは、より重大な御奉公と存じます」

治44年・・雪の新潟県高田の軍隊規律と世界にも精強な(日露戦争勝利後だから)陸軍高田第58連隊に日本に初めてスキーの正式な指導があったのだそうです。

テオドル・フェードレル・フォン・レルヒ少佐(オーストリア)からの指導を忠実に守った10人の専任 陸軍将校は1カ月間に渡るレルヒ少佐による指導の成果でスキー術を完璧にマスターしたといいます。





の陸軍・高田師団長・長岡外史中将の天皇陛下への「・・・・・・数千年来、雪に閉じ込められた陛下の 赤子を今こそスキーによって健全な国民にいたします。これは長岡が軍事によっての御奉公いたしますよ りは、より重大な御奉公と存じます」と奉上したとおりになったのでした。



テオドル・フェードレル・フォン・レルヒの正しい名のフォンは貴族の称号なのです。テニス、水泳、スケー ト、登山、特に狩猟は狩猟官という称号も持ち、冬の狩猟に必要な山岳スキー術は彼の最も得意とした分野で あり、なんと当時、欧州を風靡していた1本杖のツダルスキー術、創始者ツダルスキーの高弟だったのでした。


 このレルヒ直伝の専修将校をスキー教官として長岡外史中将は新潟、長野を中心に軍事だけではなく、一般の人達に普及させようと努力しました。中学・師範学校・郵便局・営林署・鉄道省・病院の院長先生達・・・・ とあらゆる階層の人たちに高田58連隊を解放して、スキーを普及したのでした。

ここが髭の名将といわれた長岡中将のすばらしいとこ ろなのですね。

明治天皇が崩御された明治45年には全国の雪の降る地方では北海道から南は広島まで広く国民にスキーが普及したのでした。


 当時レルヒ少佐はハンガリー帝国の参謀部所属であり、「日本がロシアに勝ったのは特別な軍事訓練があったのではないか、隊附となって視察せよ!」との命令を受けたのだった。

決してスキーの普及だけが目的ではないのでしたが、きっといい人だったのでしょうね。

レルヒは、「日本に配属を命ぜられたからには、スキーがやれる連隊を」と、高田第58連隊を自ら志願したそうです。

レルヒ到着1ヶ月前に、在北欧公使(杉村虎一氏)から長岡中将の元にスキー2台が送られ、若い将校をスキー研究員として臨時編成し、フランス語の手引書を見て連日研究に夢中になったが、どうにもならず研究班を解散しています。

どれほど長岡外史中将はスキーという術?に期待し、レルヒの到着を待ったことでしょう。

明治44年1月15日、正確には午前8時半、何とレルヒが到着早々、長岡外史師団長がスキーの指導依頼を願い出ていることからも、その歓迎振りが伺えます。

系統立てた指導体系が国内初であったことから、レルヒの高田への赴任日1月15日をスキー記念日としてい るのだそうです。


新潟県高田市の「大日本スキー発祥の地」の碑を見に行こう!
なんて超一流の指導者が来たのでしょう!


レルヒ少佐は帰国後「日本の印象」として欧州各地で講演、第一次大戦には連隊長として各地に転戦、少将に昇進して現役を退かれ、ウイーンで没。





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