あとがき
 数ヶ月前、友達と一杯やった時に「私の生きざまを本にしたら」という言葉が、何か気になっていました。ちょうどワープロを買い替えたので、練習のつもりで、思い出しながら打ち続けているうち、こんなに長くなってしまいました。

 世間には変わった人がいる。今半生を思い出しているうちに、こんな変人(ユニーク)がいても良いのではないかと思うことにしました。

 私が中三の秋、父が脱サラでラーメン屋を開きました。誰に言われるのでもなく、何時しか父の手伝いを始め、現在次男と商売をしています。ちょっとしたきっかけで柔道を始め、今は副会長を勤めています。これが道楽の始まりで、自分でも何をやって来たか分からないほど、いろんな事をやって来ました。順を追って上げてみると、通信教育ではペン習字、書道、賞状技法講座、レタリング、日本人形等、また合気道、空手、お花、詩吟、俳句、洋裁、文化刺繍。この中で中途半端でやめた物はなく、何とか物にしました。文化刺繍などは、業者からも注文があるぐらい上達しました。それと大工の血が流れているせいか、ギイコギイコと鋸を引くのが好きで、色々な物を作りました。

 その時々に、楽しみながらやって来ましたが、振り返って見て大変だった事は、市主催の柔道スポーツ教室でした。朝8時に学校の体育館に入り、青少年に柔道の指導を17年やって来ました。朝早く起きて仕込みをして出かけ、10時半に帰って来て、それから仕事。今振り返って見て、これだけの事をやって来た事を、我ながら感心しています。私はテレビなど見て、ゆっくりくつろぐ事が出来ず、何かやってないと落ち着かず、母に「仕事や家事をして疲れているのだから、少しは落ち着いて、体を休めたらどうだ」などと良く言われました。

 妻が発病して22年、その間色々な事がありましたが、その中で二つほど、大変な思いをした事があります。私は丈夫で病知らずで、この年まで何とかやって来ましたが、平成8年の12月に風邪をこじらせ、熱が上がったり下がったりの繰り返しで、大変苦しい思いをしました。本来なら2、3日ゆっくり寝て体を休めれば、治りが早かったのでしょうが、仕事の関係上、休む事が出来ず、お店を早仕舞いして、妻に早く食事をさせ7時には寝かし付け、私もそのまま寝てしまいました。ただ朝起きるのが大変です。体がだるく、ふしぶしが痛く、なかなか床から出られず、「このまま寝ていたいな」という日が何日もありましたが、そうも行かず、一日一日を精一杯仕事をしていました。すっかり治るのに2ヶ月も掛かってしまいました。

 また、ごく最近ですが、痛風にかかり、あっと言う間に右足が腫れ上がり、歩く事もままならず、その夜は床に着くのも痛くて、一睡も出来ませんでした。仕事は休めないので、足を引きずりながら勤めました。4日目には嘘のように痛みが取れ、普段通り仕事は出来ました。その間も、何時ものように仕事、家事、妻の世話をやらざるを得ませんでした。私が58年生きて来て、今までにこんな辛い思いをした事はありませんでした。人の面倒より、私の面倒を見て貰いたいと、心の底から痛切に思いました。そして何の気も遣わず、ゆっくり養生したかったと、つくづく思いました。

 自治会長を経て、平成5年、青海大祭の拍子木(木頭)を仰せつかりました。この時ほど良い兄弟に恵まれた事を、改めて思い知らされました。主力の私と息子がお祭りに参加するので、お店の方は、長兄夫婦が音頭をとり、兄弟夫婦、また姪までが手伝いに来てくれて、素人だけでお店をやり、2日間で二百人からのお客様を消化、またお祝いに来て頂いた人達の接待と、玄人の私でさえ大仕事なのに"よくぞやってくれました"としか言いようがない、本当に有り難い事でした。

 当日、山車の先頭に立って山車の運行を司り、きらびやかな衣装に身を包み、12人の拍子木が集まるとパーッと花が咲いたように奇麗で豪華です。拍子木を打つ音に合わせ山車が動き出す。お祭りにはなくてはならない、お祭りの花形で男冥利に尽きました。

 私の心にも花が咲き、夫婦共に、これからも心おおらかな生活をして行きたいと、つくづく願ったものでした。